芸術家外伝

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Post-Impressionism

形態感覚の欠如

1880年代後半から1905年のフォーヴィスムの登場までの時代を包括するものに、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、ジュルジュ・スーラ、フィンセント・ファン・ゴッホの4人を母体とする後期印象主義と呼ばれる便宜上の概念が存在する。

今回は4人のうちで最も年長であり、印象派の美学に最も深く関わっているセザンヌに焦点をあてたい。

[画像 / サント・ヴィクトワール山]

セザンヌは、初めロマン主義的な荒々しい主題を暗い色調で描いていたが、ピサロと出会って自然を観察し冷静に画面を作ることを学んで自己の画風を見出して行った。

[画像 / Turning Road at Montgeroult]

彼は印象派展にも第1回から参加している。しかしセザンヌは印象主義の形態感覚の欠如を嫌い、自然を前にして美術館の古典的な作品のような構築された絵画を描くことを追求した。

[画像 / Still Life with Apples]

そのため、セザンヌは一つ一つの色面が光の感覚を伝えると同時に空間内における対象の位置、物質的存在感をも表す独自の制作法を作り出した。

[画像 / Large Bathers]

それは平面的なナビ派の画面意識も、後の立体派(キュビスム)の両義的な形態/空間表現をも予告するものであった。

反印象主義の印象派

ジョルジュ・スーラもまた、印象派を出発点としながら、そこにルネサンス絵画のような古典的な秩序を与えようとした。印象派の筆触分割の技法に対しても、スーラはそれが十分科学的でないとして、シュヴルール、ルードなどの色彩理論を厳格に適用し、規則的な点描によって画面を作り上げる手法を生み出した。

[画像 / グランド・ジャット島の日曜日の午後]

さらにまた彼は、線と感情との関係にも合理的な法則性を求めた。しかしそこから生まれたのは、不思議な夢幻的印象を与える詩情溢れる『グランド・ジャット島の日曜日の午後』のような作品であった。

ポール・ゴーギャンは印象主義の感覚主義的な現実描写に対して明確な反対を掲げ、1888年にいわゆる総合主義の様式を確立する。鮮やかな色彩を単純化された輪郭の中に平塗りする技法によって、想像力の生み出す概念、抽象的な気分を描き出すこの様式は、当時ゴーギャンの周囲にあったいわゆるポン・タヴェン派の相互影響の中から生まれたものであった。

[画像 / タヒチの女たち(あるいは、砂浜にて)]

ゴーギャン自身は、西洋文明の虚偽と退廃を憎み、原始的な生活の自由と真実に憧れて、1891年以降、タヒチなど南太平洋の島々を移り住み、ドミニック島で死んだ。この原始的な生活は、ゴーギャンの期待に反し、物質的にも精神的にも悲惨なものであったが、そのなかで総合主義は豊かな円熟をとげ『タヒチの女たち(あるいは、砂浜にて)』のような作品を生み出した。

ゴーギャンもナビ派と同じように絵画のみならず焼き物、彫刻、木版画に優れた作品を実現している。

表現主義の出発点

オランダ出身のフィンセント・ファン・ゴッホは、伝道師などさまざまな職業を試みたのち、その不安に満ちた激しいな内面世界、宗教的感情を託す手段として絵画を選んだ。

[画像 / ジャガイモを食べる人たち]

修行時代には『ジャガイモを食べる人たち』のような、暗い色調で農民たちの素朴な生活を描いたが、1888年からパリ滞在で印象主義、新印象主義を知り、視覚と技法を一新して強烈な色彩による感情表現への道を歩み始めた。

[画像 / アルルの夜のカフェ]

アルル時代の作品『アルルの夜のカフェ』では夜の生活の退廃に対するゴッホの想い、観念が赤や緑の色彩に託されて激しい表現主義的な画面となっている。

有名な耳切り事件の後1年半で彼は自ら命を絶つが、短い生涯におそるべき情熱で描いたその作品は現代絵画を開く重要な先駆者となった。

[画像 / 叫び]

叫び』で有名なノルウェーのエドヴァルト・ムンクなども、ゴッホと並んで20世紀の表現主義の出発点となっている。